表町からまちの未来を見つめ続け
具体的なイメージのその先にある
石原達也という黒子的生き方

005 「特定非営利活動法人 岡山NPOセンター 石原 達也」

2018年10月9日

 

石原さんに会うと、ちゃんと寝ているんだろうか、
と、いつも思う。
NPOを支援するNPOとして
今や、岡山のまちづくりに欠かせない存在となった
岡山NPOセンターの代表を務める石原達也さんは
常に同時進行の沢山の案件を抱えながら
まちの課題や、困っている人々のサポートのため
全国を縦横無尽に飛び回っている。
そのパワーは、いったいどこからくるんだろう。
いつも少しだけ先の未来を見つめ
その明確なビジョンを私たちに示しながら
具体的に行動していくバイタリティの
その秘密のカケラや原動力、
まちへの想いについてお話を伺いました。

 

 

_________________________________________________________

 

 

__

石原さんは、岡山出身でしたっけ。

 

石原

僕この辺ですよ、ずっと。
小学生ぐらいの時に、実家が2回引っ越ししたんですけど、
ずっと三勲小学校区内で、中学は操山なんですよ。
後楽園や岡山城、石山公園とかにもこどもの頃よく遊びに行ったし、
小学校の頃、夏に、絵を書く授業の時とかは、
そういう場所でスケッチしたりとかしてました。

中学校の時は、ワンダーフォーゲル部で山登りをやっていたんですけど、
元々、父親がそういうのが好きだったから、
小学校の時から、よくキャンプに行ったりとかしていて。
それで、自然関係の仕事に就きたいと思ってたんですよ。
国立公園の、尾瀬とか大山とか、
ああいう、国が持っている国立公園の管理をする
「レンジャー」 っていう環境省の仕事があるんですけど、
中学の時に、それになりたいなと思って。

 

__

中学の時に
やりたいことが決まってたんですね。

 

石原

そう。
林業の勉強をして、
公務員の試験を受けたらなれるということを教えてもらって。
それで、父親に相談したら、
父親の友達の公務員の人が色々教えてくれるから
会って来なさい、っていうことで、
オリエント美術館の喫茶店で待ち合わせをして、
その人に、レンジャーになる方法を教えてもらって。
だから、
高校出たら、大学には行かずに環境省に入って、
国立公園の管理をする仕事をずっと一生しようと思っていたんですよ。

 

__

そうなんですね。

 

石原

それで、中学校の進路指導の時に、
担任の先生に
環境か林業の勉強をして、そういう職に就きたいって言ったら、
県北に、そういう勉強ができる高校があることを教えてもらって。

 

__

そういう高校があったんですね。

 

石原

そうなんですよ。
その代わり、
中学校では、そんなところは誰も受験しないから連れて行けないと。
だから、お父さんと行ってきてください、って言われて(笑)。
それで、そこを受けて通ったから、下宿することになって。

 

__

下宿だったんですね。

 

石原

そう。
下宿生活。

 

__

そういえば前に、
波乱万丈な下宿生活の話を聞いた記憶がありますけど(笑)。

 

石原

そうそうそうそう(笑)。
多分、石井さんたちの時代は、結構中学校とか悪くて…。

 

__

悪かったかもしれん。
当時は、荒れとったかもなぁ…。
そういう時代(笑)。

 

石原

ですよね。
僕らが1年生で入った時、
3年生にはそういう感じがまだ残ってましたけど、
全体的にヤンキーの数も減ってきて、
僕らの時は、それの終わりぐらいだったから。

 

__

スカートの丈も、だいぶ短くなってきてたりとかして(笑)。

 

石原

そういう変化の境目あたり(笑)。
ワックスとかムースとかつけておしゃれするみたいな、
もうちょっと、おしゃれヤンキー的な方が多い感じだったんで。
でもまあ、千日前とかに行けばまだいっぱいましたよね。

 

__

そうですね。
あと、表町とか天満屋の辺りには、
巡回がいっぱいましたね(笑)。

 

石原

いましたねぇ。
懐かしい(笑)。
まあほんとでも、僕はここら辺の、普通の中学生で。
千日前のゲーセンに行っては、絡まれるような。

 

__

千日前にはまだ、映画館もあったし、元気でしたよね。

 

石原

あそこら辺が元気で、なんか不思議なパワーに満ちたところで。

 

__

福福饅頭のふーまんとか、かき氷とか、
学生の頃、みんな行ってましたよね。

 

石原

そうそうそうそう。
そういう感じです。

 

 

__

時計台の角のところに
「鳩ポッポ」っていう喫茶店があって、高校の頃かな。
表町が、商店街も周辺も、喫茶店全盛の時代あって、
喫茶店がいっぱいあっったんですよ。
「ケント」とか「シャルミール」とか「白樺」とか「青と白と赤」とか。
あと、レコード屋さんや本屋さん、
楽器屋さん、文房具屋さんとかに行くのも楽しくて。

 

石原

いやぁ、そうですよね。
なんかそういうのがいっぱいありましたよね。

 

__

あと、その時計台の周りで、
イベントとかライブがよくあったりとかして。

 

石原

やってましたね。
みんなそこで、待ち合わせしたりしてましたよね。

 

__

あ、してた!
そうそう。

 

石原

ねぇ。
今誰もいないけど(笑)。

 

__

天満屋の所の、今アリスの広場とかになってるけど、
あそこに、ラジオのサテライトスタジオがあって。

 

石原

あー、ありました、ありました。
いやー懐かしい(笑)。

 

二人

わはははははは(笑)。

 

石原

いやぁ、そういう感じで、
まだ商店街も、あの頃元気だったし。

 

__

めちゃめちゃ元気だった。

 

石原

ね。
日限のお地蔵さんとかも、もっと元気でしたよね。

 

__

盛大でしたよね。
こどもの頃とか、
うちは、家族で毎月23日になったら日限のお地蔵さんに行って、
帰りにご飯食べて帰るというパターンがありましたね。
そういう家族の行事になってた。

 

石原

そうそう。
すごい人も出てましたよね。

 

__

うん。
店もいっぱい出てた。

 

石原

スケバン刑事とかが流行ってたんで、
ヨーヨーとかけん玉とか買ってましたもん(笑)。

 

__

たしかに、そういうのあったかも(笑)。
そういう時代。

 

石原

そういう時代でしたね(笑)。

 

__

ね。
そんな、ヨーヨー買ったり、
表町のゲーセンに行ったりする中学時代があって(笑)。
そのレンジャーの夢を持ったまま、高校に行くことになって。

 

石原

そうそう。
だから、ほんと中学の時は、そういう感じでダラダラしていて。
部活はやってましたけど、それ以外はそんな感じで。
で、高校出たらそういう仕事に就こうと思って、覚悟して行って。
引っ越していって行ってから分かったことというか、
まあ、向こうにおいては常識だったみたいなんですけど、
入学した高校は、当時
とにかくヤンキーが多くて(笑)。

 

__

あー、なるほど(笑)。

 

石原

農業機械科っていうのがあって、
そこはマシンとかをいじったりするのが好きなヤンキー。

 

__

あ、ヤンキーなんだ(笑)。

 

石原

そうそう、ヤンキー(笑)。
ぼくらは林業緑地科で、
そこは将来、土木関係を目指しているヤンキー。

 

__

ふふふ(笑)。

 

石原

結局どっちもヤンキー100%(笑)。
男しかいなくて、クラスの7割ぐらいはヤンキーみたいな感じで。

 

__

男子校なんですか?

 

石原

一応、学校には女子もいるんですよ。
僕らの校舎と普通科の校舎との間に中庭があって。
お前ら危ないから、普通科には…

 

__

あ、こっちくんなみたいな感じ?

 

石原

そうそう(笑)。
お前ら行くなみたいな。

 

__

やだぁ、怖いー(笑)。

 

石原

で、食品製造科っていうところだけは女の子がいるんですけど、
そこは、ヤンキーの女の子(笑)。

 

__

あ、女の子もやっぱりヤンキー(笑)。

 

石原

そうそう(笑)。
女の子もバチバチの。
スカートめっちゃ短いとか、金髪の子とかもいて(笑)。
中学とかでヤンキーやってた人たちが、
みんな、おりゃぁー、って集まってきてる、すごい緊張感がある中、
一人なんか、岡山市から来てる。
何こいつみたいな(笑)。

 

__

あはははは(笑)。
逆に、ざわつく。
ひょっとしたらものすごいんじゃないかみたいな。

 

石原

ものすごいアホか、ものすごいヤンキーか、ものすごい変態か、どれか(笑)。

 

 

__

何者なんだアイツ、みたいな。

 

石原

なんなんやアイツ、って(笑)。

 

__

ヤンキーの中に紛れ込んだ石原さんを想像したら、面白すぎる(笑)。
そういう前情報は無く、入学したんですか?

 

石原

全然知らなくて。
親戚も友達も身寄りも何もなく行ったんですよ。

 

__

下宿。
逃れられない。

 

石原

そう。
逃れられないんですよ。
下宿自体も、入ったその日に、部屋で音楽とか聞いてたら、
「ガンガン、バッ」 ってドアが開いて、
リーゼントまで含めると2 メートルぐらいある人が入ってきて(笑)。

 

__

漫画の世界(笑)。

 

石原

本当、漫画みたいと思って(笑)。
エー、って思って。
「初めまして、石原です。よろしくお願いします」 って言ったら、
「おー、おー、聞いてる聞いてる。
今日の何時からお前の歓迎会やるから、俺の部屋に来い」
みたいに言われて。
そこで、ここでは言えないような歓迎会が繰り広げられて(笑)。
普段の生活でも、
部屋にいると先輩に部屋の壁をガンガンって叩かれて
常に呼び出されるっていう(笑)。

 

__

いやだよぉ(笑)。
部屋を留守にしてる時にトントンされたら、どうするんですか?

 

石原

だから、なるべく部屋に帰らないのが一番じゃないですか。

 

__

あ、確かに。

 

石原

学校にいる間は、
呼び出されることがないから安心でしょ。
だから、なるべくどうにかと思って知恵を絞って、
結果、そのせいで、生徒会長やったりとか。

 

__

生徒会に入って、用事をいっぱい入れたわけですね。

 

石原

そうそう。
用事をいっぱい作ったんですよ。
地域の伝統芸能の和太鼓のサークルに入ったりとか、
そういうふうに、いっぱい用事を作って、21時頃まで帰らない(笑)。
でも結果的に、
21時ぐらいに帰ってから、明け方まで付き合わされてましたけど。

 

__

結局呼び出されちゃうんだ(笑)。

 

石原

そうなんですよ(笑)。
でも、ある意味、良くしてもらったんですけど。

 

__

面倒見はいいんですね。
情に厚い。

 

石原

そうそう。
飯おごってもらったりとか。
だから、大学に入ってやるようなことを、高校で一通りやって。
ご指導いただいて。

 

__

早いデビューだったんですね。
そういう、濃密な高校時代を。

 

石原

濃密な。
でも、林業の勉強は
プロジェクト研究とか色々させてもらって
ちゃんとやってたんですよ。
そんな濃密な下宿生活も
実は、一年で解散になって。
それで、別の下宿に移ることになったんですけど
同じ高校の仲良かった友達3人と一緒の下宿になったので、
みんなで遊びに行ったりとか。
友達の中に土建屋の社長の息子がいて、
プレハブ小屋みたいなのを遊び部屋みたいに改造して、
そこでバンドみたいなことをやったりとか、バイク改造したりとか。
そういう、青春っぽい青春を。

 

__

よかった。
ちゃんとした青春時代もあって(笑)。

 

石原

前半がちょっと凄すぎて(笑)。

 

__

やっていけるんだろうか俺って、思わなかったですか?

 

石原

いやいや、何回も思いましたよ。
リアルに2回ぐらい死ぬと思って。
でも、すごい判断能力が鍛えられました。

 

__

危機管理能力と話術と。

 

 

石原

その怖い人たちの逆鱗に触れると大変じゃないですか。
そういう危機をどう回避するか。
この人とこの人が仲悪くなられると、この先困る。

 

__

そういうのを、なんとかする力がついた。

 

石原

ついた(笑)。
つけざるを得なかったというか(笑)。

 

__

そんなところに、石原さんのルーツがあったとは(笑)。

 

石原

麻雀とかも、したことなかったのにやることになって、
最初はやられっぱなしだったから、本買って、
いっぱい勉強して勝てるようになってとか。

 

__

サバイバルー(笑)。

 

石原

いや、本当に。
でも、勝ちすぎてもだめじゃないですか。

 

__

そっか。
ご機嫌を損ねないぐらい。

 

石原

そこそこぐらいでやらなきゃいけないから、それも大変で。

 

__

そんなこんなの、思わぬ出来事の数々で、
色んな能力が身についていったんですね(笑)。

 

石原

すごい力を、高校の時に身につけて(笑)。
最初の下宿時代の1年間の後は、
友達と色々やったりとか、
生徒会長になっちゃったんで、
高校の中で、どうやってルール設計をするといいかとか、
文化祭で、いろんな部活動が活躍できるにはどうしたらいいかを考えたりとか、
今に近いようなことをやったりして。
高校の3年間で、色んなことをやりましたね。

 

__

そういう高校時代があって、
やりたかった環境の方向には進んだんですか?

 

石原

高3の夏に、公務員の試験があって、面接を受けて、通ったんですよ。
そこに行くつもりだったし、
高校の時色々やったのも、ある意味、学生生活が最後だと思ってたから。

 

__

就職するつもりだったから。

 

石原

そういうのを、今のうちにやっておこうと思って、いろいろやってたんですけど。
環境省とか林野庁に入るには、
試験を受けて、その資格をもらうんですけど、
林野庁は、今年何人募集しています、
環境省は、今年募集をしません、って…。

 

__

年度によるんですか?

 

石原

そうそう。
試験に通ったのに行けないって言う。

 

__

ちょっと理不尽な感じ。

 

石原

そう。
理不尽な目にあって、ほんとどうしようかなと思ってて。
そしたら先生が、大学に推薦してあげるから、って。
センター試験を受けなきゃいけないけど大学に行けるよ、って言われて。
高校の時に、色々やっておこうと思っていたことの一環で、
中国の内モンゴルが砂漠化していて、
そこに木を植える緑化活動をしている方のところに、
先生に誘われて行ったことがあって。
今でいう、NPOやNGOみたいな感じで。
その代表を、鳥取大学の名誉教授がされてたんですよね。
だから、鳥取大学には、砂漠の緑化の研究をしているところがある、ってなって、
以前見学に行ったという経緯もあるから、
大学を受けてみることになって、
結局、鳥取大学に行くことになって。

 

__

そういう流れで、鳥取とご縁ができたんですね。

 

石原

そうなんですよ。
だからそこで、もしもすんなり環境省に入ってたら、
今ここにはいなくて、
国立公園をずっとまわってると思うんですよ。

 

__

そうですよね。
最初に、夢を描いた道ですもんね。

 

石原

そうそう。
その道を進んでいるはずだったんで。

 

__

何がどうなるか、わかんないですね。
大学でそういう自然や環境のことを学びつつ、
遠足計画が立ち上がったのも、大学の時ですか?

 

石原

大学の時です。
結果的に、高校の時にすごい林業の勉強をやったうえで、大学に行ってるじゃないですか。
大学の他の同級生は初めてのことだけど、僕は知ってる。
だから正直、授業がそんなに面白くなくって。
アルバイトしてお金貯めて、自転車で一人旅に行ったりとか、
そういう大学生によくありがちな、モラトリアム的なことをしていて。
それでほとんど大学にも行かずに。
ゼミには入らなきゃいけなかったんで、入って。
そしたら、僕のゼミ仲間と仲の良い、別のゼミの子たちが、
「NPOを作ろうっていう話があるから、その話を聞きに行く」っていう時があって。
うちのゼミ仲間も、みんなその話を聞きに行くっていうんで、
誘われて、流れでなんとなく一緒に聞きに行って。
そしたらその中で、こども向けにいろんなことをやるっていう話もあって。
僕が林業を勉強していてチェーンソーを使えるっていうことが知られてたから、
手伝ってくれって言われて、手伝うようになって。
やってるうちに、だんだんそれが面白くなってきて。
実際に自分たちが勉強していることが、
高校の時よりも大学の時の方が、現場から遠い感じがして。
やっていることがどう役に立つのか、すごい疑問があって。

 

 

__

表面的なんですか?

 

石原

まあそうですね。
ある意味、学術的には深いかもしれないけど。

 

__

理論とか?

 

石原

そうそう、そういう感じ。
現場と関係ないことが多いから、
現場で林業やっているおじさんとか、
高校の時の同級生の彼らとかにとって、
何の役に立つんだろうか、っていう思いになっていて。
それが、そのNPOでやっていたのは、
実際の材木屋さんのご支援をしたりとか、
お手伝いしてイベントやったりとか、
森林公園みたいなところでいろんな人が来て、
みんなを支援するようなことをやったりとか。

 

__

何のために、っていう、目的がはっきりしている感じだったんですね。

 

石原

これをやると、こういう風につながる、っていうのが見える感じだったんですよね。
それが面白くて。

 

__

そしてそれがやがて
NPOってこういうものだ、っていうことがわかる。

 

石原

それで、大学生だけでNPOを作ったりして、
その時に副代表みたいなこともやって。
最初に作ったNPOは、
いろんな人の寄せ集めだったんで、
やがてみんなバラバラになって。
そこから、僕は遠足計画を作って。

 

__

そういう流れだったんですね。
遠足計画も、長かったんですか?
10年以上?

 

石原

そうですね。
こないだ解散して。
25歳ぐらいからだから、15年ぐらいかな。

 

__

そのゼミの流れから、
NPOっていうものを意識してたわけじゃないけれど、
結果としてそういうものに関わるようになって。
石原さんが学生の頃って、NPOって一般的になってましたか?

 

石原

まだまだ、全然。
2000年ぐらいだから、まだかな。
1998年にNPO法ができて、まだ2年だから。
岡山とかもそうかもしれないけど、鳥取は当然まだ少なかったから。
10もなかったかも。

 

__

全部合わせても?

 

石原

組織としては、多分、それくらいの数しかなかったと思うんで。
そういう意味では、知られていないものがだんだん知られてきたりとか、
行政でも、初めて政策になったりするような時期で、
始めた頃はなかったけど、
だんだんそういう活動に対する補助金ができたりとか、
そういう制度ができたりしてきて。
その当時は、
学生で男の子で、そういうことをやっているっていうのが珍しい頃で、
福祉系の女の子とかはいたけど、男手はあんまりいなかったから、
色んな所に呼んでもらったりとかして。
だんだん行政とも関わったりして、
世の中の仕組みとか、
行政ってこんなことをするところ、っていうことが分かってき始めて。
当時、鳥取の選挙で市長が変わって。
その市長が、これからは市民活動とか、
市民が関わるまちづくりが大事だから、
まちづくりをもっと進めるために、
ボランティアとか市民活動センターみたいなものを作ります、って言われて。
それを、社会福祉協議会さんが受けてやります、ってなったんですよ。
そこの社会福祉協議会の、当時の担当の人が、
僕らに歳が近い若い人がやられていて、
その人と仲良くさせてもらっていたので、
人を新しく雇うっていう時に、
NPOのことが分かる人がいいってことになって、
それで、僕がそういうことをやってるからいいんじゃないかって、声をかけてもらって。
そこから、鳥取の社会福祉協議会の職員として、
実状、今と変わらないような、
NPOの人たちの支援をするっていう仕事に携わるようになったんですよ。

 

__

じゃあ、いよいよこの道に、ですね。 

 

石原

いよいよ、ですね。

 

 

__

その当時の、NPOとかがまだ本格的にない頃は、
社協さんがそういう役割を担ってたんですか?

 

石原

そうですね。

 

__

社協さんは行政?

 

石原

まあ、行政の外郭団体みたいな感じですよね。
だいぶ近い感じですよね。

 

__

純粋な民間でもなく?

 

石原

微妙なとこですよね。
一応民間組織だけど、
でも、事務局長さんとかは
行政から出向で来てる人がやっていたりとか。

 

__

じゃあ本当に、ちょっと難しい立ち位置ですね。

 

石原

そうですね。
そういう感じの組織ですね。

 

__

社協さんが、まちの課題とか、
そういう立ち位置の関わり方でやろうとしても、やりづらいようなところの、
そこに変わる機能的な組織、
みたいなのが NPOな感じなんですかね?

 

石原

ひとつは、当事者的と言うか、
まちの当事者たちが、
自分たちで、このまちがこうなって欲しいって思って、
自分たちで行動するみたいな感じじゃないですか。
そういう当事者性の高さとか、
当事者同士でやるからこそ、
行政がやるよりもいろんなことを柔軟にできたりとか、
そういう風な所、っていうのが大きいかなと、僕は思うんですけどね。

 

__

NPO の特徴としては。

 

石原

そうですね。

 

__

だから、代替えじゃなくて、
社協さんみたいな機能も必要だし、
もっと当事者に近いというか、
当事者から生まれるものが活動になっているのがNPO。

 

石原

そうじゃないかなと思うんですよね。
今回みたいな災害が起きたら、
どうにか助けたいとか、できることがあればしたいって、
みんな思うじゃないですか。
その気持ちの体現みたいな感じかな、NPO って。
税金を払って行政みたいな仕組みでやるというのとも違うし、
目の前にいる仲間と一緒にとか、
困っている人たちを、何とか自分たちでどうにかしたいっていう
気持ちの表れみたいな感じ。
でも、思いだけでバラバラにしていると効率が悪いから、
効率よくみんなでやりましょう、みたいなのがNPOになって。

 

__

組織にする理由っていうのが、そこなんですよね。

 

石原

そうですね。

 

__

岡山NPOセンターに関わるのは、その鳥取の社協さんを経て。

 

石原

そうですね。
そこに2年半ぐらいお世話になって。
そのあと、岡山NPOセンターが、
今のゆうあいセンターの指定管理を取るっていうことになって。
今まではどちらかというと、パートの人とかばっかりでやってたけど、
指定管理を受けるし、常勤の職員でやっていくので、
出来る人を探しているっていうことで。
鳥取にいた時に、
岡山NPOセンターの人にも会ったことがあったので、
岡山出身だって聞いているし、
岡山に帰ってきてそういうことをしませんか、という声をいただいて。

 

 

石原

最初、自然の仕事で一生生きていきたいと思ったりしたてのは、
父親の影響が大きかったんですけれど、
父親が亡くなったんですよ。

 

__

その頃。

 

石原

そうそう。
ほんと、ちょうどその年の正月に帰省している間に、体調が急変して。
そういうのもあって。
父親も亡くなって、
母親と弟はいるけれど、まあ、帰った方がいいかな、
っていう思いがちょっとあったりとか。
中学までしかいなくて岡山を出てたから、
やっぱり、自分の地元のためにも何かしたいな、っていう気持ちもあったんで。
それである意味、いいタイミングでもあるなと思って。
それで岡山に帰って、
岡山NPOセンターの事務局長と、
ゆうあいセンターのマネージャーみたいな感じで。

 

__

そうだったんですね。
その頃からどんどんNPOセンターも、組織的な形になっていったんですね。

 

石原

そうです、そうです。
それが、2005年。

 

__

NPOの活動をしようと思って始めた、というよりは、
やってきたことが、
NPOというものの中で活動しているようなものだった、
ってことなんですね。

 

石原

そうそう、そういう感じなんですよ。
僕はなんか今ね、それの専門家みたいになってますけど。
僕は本当は元々、自然と関わってとか、
そういう方向を目指していたので。
気がつけば、こんな感じになったっていう。

 

__

13年くらい前から関わり始めて、
大学の頃とかを含めるともっとかもしれないですけど、
まちと人の関わり方とかについて、変化を感じますか?

 

石原

あると思いますよ、やっぱり。
昔は、商工会議所の青年部だとか、
そういう方たちがまちのイベントをやったりとか、
もしくは、もうちょっと学者的な人とか、
そういう人がどちらかというと多かったかなという感じですけど。
今は普通に生活している人っていうか、
お店をやっててとか、
そういう人がやっているっていうのが大きいだろうし、
そういう人たちがやられていることの方が、
いろんな人に伝わって、広がっていくっていう感じがすごくしていて。
そこがすごく変わったなという。
本当に、いろんな立場の人がやってるから、
それぞれの人にとって
自分に近い入口が沢山できたというか。

 

__

チャンネルも増えたから、
「選べる」 っていう選択肢も増えてるし。

 

石原

そうですよね。
そういうのが増えたんだと思うんですよね。
自分が好きなことのチャンネルで、まちと関われる。
僕が活動を始めた頃は、
僕が知らなかっただけかもしれないけど、
まだまだそういう機会も、やっている人も少なくて。
公園を貸し切ってイベントをするとかにしても、
どこにどう手続きしていいかとか。
そもそも、そんなことできるのかとか、そういうことも知らない。
それが、あんなこともできる、こんなこともできるってことが、
この10年ぐらいの間に、みんながいろんなことをやったおかげで、
そういうことができるっていうことが伝わっているというか、
やりやすくなっているというか。
そういう感じがすごく変わったなと思います。

 

__

そうですよね。
私たちENNOVAなんて、まだ10年も経ってないけど、
こうやって、まちに関わらせていただいたりとか。
いろんなものがだいぶ身近になったんですよね。
共有しやすくなったというか。

 

石原

ネットワークというか、つながりというか。
SNSの力とか、いろんなツールのおかげもあるんでしょうけど。
いろんなもののおかげで、つながりが強くなったっていうか、
そういうのはありますよね。

 

__

自由度も高くなってるんですかね?

 

石原

なんか、みんなつながってるけど、
そんなにしがらみもないし、
仁義を切らないといけないっていうわけでもなく、
みんなそれぞれ好きなことをやっていて。
これとこれを一緒にやったら面白いんじゃない?
っていう時は組んでやって、
また形を変えたりね。

 

__

そうですね。
それぞれが、それぞれで、
ちゃんと立ってる、っていうのが重要かもしれないですね。

 

石原

そういう感じになってきてますよね。

 

__

阪神淡路大震災があって、
ボランティア元年とか言われて、
NPOのあり方とか形とかも、どんどん変わってきて。
NPOって何だ、って知らなかった人とか、
ボランティアをやったことがなかった人とかも、
そういうことに参加する機会も増えて。
今年は岡山でも大きな災害が起きて。
岡山でも起きるのか、っていうね。
衝撃がね。

 

石原

ほんとですよね。
僕は今回、岡山のみんなって、すごい心強いなって思ったんですよ。
「災害支援ネットワークおかやま」っていうのを、
今、やらせてもらっていて。
136ぐらいの組織が関わってくれていて。
元々、NPOでやってた人も、もちろんたくさんいるし。
それ以外にも、生協さんとか労働組合さんとか。
もちろん、企業さんもいるし。
宗教団体とかも含めてなんですけど。

 

 

__

「災害支援ネットワークおかやま」を
知らない方もいらっしゃると思うんですけど、
そこに関わった人たちには、どういう役割があるんですか?

 

石原

ネットワークを作ったから何かするというよりは、
基本的には、
情報共有して、プラットフォームを提供するっていう感じで。

 

__

みんなそれぞれが、それぞれのできることを。

 

石原

そう。
目の前にいる方のご支援をしていて。
Facebookのグループ上で、
たとえば、洗濯機が5台だけあるんだけど、
行政では届けられないから、
誰か緊急で必要な人がいたら届けられないですか、
みたいな情報があったら、
じゃあ、私が届けます、とか、
そういうやり取りをしたりとか。
指定外の避難所に物を持って行った人とかが、
今日行ったら体調が悪そうな人がいたから、
誰か看護師さんとかが診に行ってくれたら安心です、って言うと、
私がじゃあ今日、ちょっと行ってみます、とか。
そういう情報が、
ずっとグループの中やネットワーク上でやりとりされていたりとか、
岡山と倉敷でそれぞれ、週に1回、会議をしていて、
そこに来て、みんなで情報交換や共有、話し合いをしたりとかして。

災害支援をやっている専門の方が一緒に入ってくれてるんですけど、
熊本とか、そういう被災地に行かれてたり、
東京でも災害支援をされてる方から、
こんなに地元の人が素早く動いているのは初めてだ、って言われてて。
災害後の7月9日に最初のネットワーク会議をやったんですけど、
その時ですら、100人以上来てくださって。
こんなに集まるのがすごいし、
そもそも、ほとんどの人が岡山の人だと。
他の地域だと、地元の方より、専門家の方が多かったりするけど
岡山では、
そういう災害専門でやっているNGOみたいな人は10人くらいで少なくて、
あとはほとんどが地元の人で、
こんなに早くから、なんとかしようって集まって、
それぞれで動いてるところって、そんなにないって。
それってすごく岡山のまちの力だと思うんですよ。

 

__

今までのイメージだと、
岡山って災害が少ないから、
災害がもし起こった時に、どうしたらいいかわからんとか、
冷たいんじゃないかとか、
割とマイナスなイメージの県民性だと自分たちも思ってたし、
きっと周りからも思われてたし。
でも違ったんですね、蓋を開けてみたら。

 

石原

全然違ったんですよ。

 

__

熱いんですね。

 

石原

熱いんですよ。
最初の一週間とか、
こういう風なことに困ってるんですけど、何か知らないですか、
みたいに連絡をもらって、
僕が、じゃあちょっと、知り合いの薬屋さんに聞いてみます、とか。
そういうやり取りの仲介をずっとやっていて。
それがずっと、夜中の3時4時頃までやって、
そろそろなくなってきたかなと思ったら、
また今度は、早起きの人は5時ぐらいから。
そんな感じで、ほぼ寝れなかったんですけど。

 

__

隙間が…。

 

石原

1時間ぐらいしか寝れない(笑)。
でもまあ、それだけ、みんなすごい動いてるんですよ。
僕が仲介しているだけでもそれだけあったっていうことは、
相当数、本当に動いていて。
その時に、僕が知ってる薬局さんとか、中小企業の人とか、
何とかならないですかとか、だいぶ色々お願いしたんですけど。
地元のそういう企業さんとか、中小企業の社長さんとか、仲間とかが、
快く無償で提供してくれたりとか、
普通のルートじゃ無理だから、ちょっとなんとかしてみようって、
すごい支援をしてくれてて。
だから、このタイミングで僕もちょっとそれを調べて、
色々見られるようにしたいと思っていて。
どうしても、一社で何億円とか寄付したとか、
そういうことがあると際立っちゃうけど、
みんなの総力でやる方がすごいこと。

 

__

大きな寄付も、もちろんとってもありがたいけど、
1人100円ずつで何百人とか、
そういうのがあると、すごいパワーというか、広がる感じですよね。

 

石原

ですです。
その方が長く続くし、そういう町の方が支えられるから。
そういうのがすごい今回は本当、あったと思うんですよね。

 

__

そういう情報って、みなさん、どうやってキャッチしてるんでしょうね。

 

石原

SNS かなぁ。

 

__

3.11の時は、まだTwitterでしたよね。
あの時に初めて、SNSの効果みたいなのを知った気がするんですけど。
みんな本当に上手に活用してるんですね。

 

石原

ほんとそうですよね。
だから Facebook上でずっと 常に、
あれが足りないとかこれが足りないとか、
ずっとみなさんやりとりされてたんで。
そういった力は強いですよね。

 

__

こうやって直接教えてもらえると、
私も何かできることがとか、
自分ができることを探すことができると思うんですけど、
普段、SNSとかを使っていない人で、
災害が自分の地元で起きました、
でも、自分の仕事や体調や家庭の事情とかで、
なかなかボランティアの応援には行けない、
でもお手伝いしたい気持ちはある、
行けない、
なんだか私悪いことしてるんじゃないだろうか、
申し訳ないな、
みたいな気持ちになる人って、
少なからずいると思うんですよね。

 

石原

そうなりますよね。

 

__

そういう、なんだろう…。
縄跳びの縄に入りそびれたみたいな、
そういう気持ちになっちゃう場合にね、
どうやって、こういう情報を伝えたらいいんだろうって、
いっつも思うんですよね。
できることや、やれるタイミングは人それぞれだから
他人と比べる必要はないと思うんですけど。
やっぱり、気持ちはあってもすぐに動き出せない人も
一定数いると思うので。

 

石原

こういうサイトを知った段階で、
自分のできることを見つけてもらえたらいいと思うんですよね。

 

__

支援は長い道のりですもんね。
遅いってことはないから、
出来る時に、出来る事を、出来るタイミングで。

 

石原

東日本大震災の時とかの経験から、
被災者向けの情報まとめサイトとか作ったんですよ。
いろんな情報があるんですけど、
せっかくの情報も、知らなかったら活用できないし、
わかんないじゃないですか。

 

__

うん。
わかんない、わかんない。

 

石原

だから、そういうのをまとめるサイトを作ったんですね。

 

(まとめサイトについて、色々レクチャーを受ける)

 

__

なるほどー。
だからこういうのって、つなぐ役割ですよね、SNSって。

 

石原

ですです。
中間支援ですよね。

 

 

__

各地で今、災害が起こってますけど、
岡山は、民間でこういう動きが早々と立ち上がった
珍しいケースなんですね。

 

石原

そうですよね。

 

__

行政は、色々てんてこ舞いだから、こういうソフトまで手が回らないですよね。
まず、目の前の色んなことに立ち向かわないといけないですもんね。
土木的なこととか、インフラ整備とか。

 

石原

そうそう。
罹災証明書とかね。

 

__

このことに関しては、NPOとかがすごく機能していて。
今まさに、必要とされてるっていう感じですよね。

 

石原

ですです。
僕、実は、こういうのを作りました、っていうのを、
NPOの支援をやっている仲間に、情報を共有してたんですよ。
それを見た北海道のNPOの人から連絡があって。

 

__

あ、北海道の地震の時。

 

石原

そう。
地震が起きた時、最初停電だったんですよ。
それで、僕のところにメッセージくださって、
岡山で立ち上げたやつを見たんですけど、
北海道でも基金を立ち上げたくて、どうしたらいいですかって。

 

__

やり方を教えて欲しいって?

 

石原

そういうメッセージが来て。
でも、そっち停電だったら大変じゃないですかって聞いたら、
実は、パソコンとかもあんまり使えなくって、って言うから、
じゃあ僕が代わりにホームページを作るから、
振込の決済だけ、どこにしたらいいか教えてくださいって言って、
災害の写真とか向こうから送ってもらって、
ホームページ自体は僕がお手伝いをして作ったんです。

 

__

すごい連携力。
もちろんニュースでわかることもあるけど、
現地の人の生の情報っていうのが、より必要になってきたりしますもんね。
きめ細やかなというか。

 

石原

本当に、いろんな形で、こうやって連携ができて。

 

__

今は全国、どこにいても繋がれるから、
一緒にやるっていうことがやりやすい環境ではありますよね。
こういう災害の時のサポートにしても、面白いことをやるにしても。

 

石原

いやぁ、ほんとそうですね。

 

__

今年、岡山NPOセンターが、20周年じゃないですか。
キャッチコピーやロゴマークの変更以外にも変わったことがありますか?

 

石原

定款の目的を変えたんですよ。

 

__

そこを変えるにあたっての想いというか、
20年の区切りだからというのも、もちろんあると思うんですけど、
時代の変化で、時代に合ったものに、っていう、
ちょうどいいタイミングだったのかもしれないですけどですね。

 

石原

あぁ、そうですね。

 

__

特に、こういうところを整理したかった、っていうのはあるんですか?

 

石原

まさしく、さっき話したようなところで、
スローガンは、
「豊かな市民社会の実現により、
 まちの中で起きた課題をまち自らで解決していける
 持続可能で自然治癒力の高いまちの実現を目指す」
なんですけど、
まちの中で起きたことを、まちの人たち、自分たちで解決していける。

 

__

自治能力。

 

石原

そうそう、まさしく。
そういうのを応援していくところ、っていう感じに直して。
前は「NPOの」っていう感じだったんですけど
NPOをはじめとするいろんな人たちと一緒に、っていう感じに変えて。
あとは
「未来型のコミュニティと持続可能な地域運営モデルの形成を図る」
みたいな感じに変えたんですよね。
事業も、以前は
「NPOのための…」っていうのが多かったんですけど、
それはやめて、
市民や企業が、ボランティアとかいろんなところに関われる、
みたいな事業に立て直したんですよ。

 

__

それはやっぱり、
時代の変化や環境の変化に合わせて、って感じですよね。

 

石原

そうです。

 

__

岡山NPOセンター自体も、
時代と共に、中身が変わってきている感じなんですね。

 

 

石原

今は理事の数も半分ぐらいに減らして。

 

__

それは、あえて。

 

石原

あえて。
機動力を高めるために少なくして。
広島のNPOと、和歌山のNPOで、
商店街の支援とかをやってる人とか、
県外の人にも今回、理事に入ってもらって。
年代も、30代、40代の若い人にして。
そういう意味では、時代に合った形に変えて。
僕が代表になったのもそうですけど。
エリアマネージメントやパークマネジメントの支援
みたいなことにも関わらせていただいて、
そういう意味では、
まち全体の仕組みをどう作っていくかとかに、よりシフトしていく感じ。

 

__

今までは、
NPOとしてまちに関わりたい人たちを、まず育てる段階だった。
それが、そういう人たちも育ってきて、
次のステップとして、これからは、
育ってきた人たちが、まちと具体的にどう関わっていくか、
そういうところの活動を支援する段階なんですかね。

 

石原

そうですね。
それをよりサポートできるような体制に。

 

__

育ってきた人とともに、
岡山NPOセンターも次の段階に、ですね。

 

石原

ですね。
そういう仕組みをもっと作って、
そういう人たちが、もっともっと活躍できるようとか、
新しく参加してきた人たちが活躍できる場が作られていくみたいな、
そっちにもっと向かって行って、っていう、
そういう感じありますよね。

 

__

NPOってなんだろう、っていう人も、
まだまだきっと多いじゃないですか。
少しずつだけど、
そういう関わりを持つ人が増えていたりとか、
必要性もちょっとずつ知られるようになったりしている中で、
20周年って言うタイミングもあるけれど、
石原さんとしても、こうやってまちと関わってきて、
今後、どういう風にまちと関わっていきたいかとか、
暮らし方とか働き方とか含めて、
今後どんなことをしていきたいですか?

 

石原

みんつく(みんなでつくる財団おかやま)をつくるのを、
石田くんと一緒にして。
今、みんつくはみんつくで、その機能を果たしていて。
今度は、寄付以外の、違うお金。
まちの大きなハードを整えるとかってなると、寄付だけじゃ足らないから、
出資するとか、投資するとかっていうことが必要になるじゃないですか。
事業化するために出資してとか。
そういう層の人って、
多分寄付をする層と、また違うんじゃなかと思うんですよね。
そういう人たちもきっと、
今回の災害もそうですけど、
自分の中の気持ちとして、
そういうことが少しでもできたらいいなって思ったりもしてるだろうし。
まちの、そういう何かをみんなで再生して、
そういう活動に出資してもらったり、出資できる仕組みを作ったり。
例えば、障害を持っている子たちが就職できるようにする環境をもっと作って、
その子たちが就職できるようにする事業に出資するとか。
そうすれば、やがてその子たちが働いた先に、地域にお金がまた還ってくる。
そういう風なことを、今、やれたらいいなと思っていて、
新しく会社を作ろうと思っているんですけど。
そういう仕組みみたいなものを、もっと増やしていくっていうことを考えていて。
僕ら40代になってしまったじゃないですか(笑)。

 

__

あ、なってしまいましたね(笑)。
そうですよね。
みんつく立ち上げの頃は、
30代の若い人たちの力でつくる、っていうところが、
ひとつのキーワードみたいにもなってましたもんね。

 

石原

そうそう。
だけど僕らも中年になって(笑)。

 

__

どうですか中年(笑)。

 

石原

いやぁ、ちょっと、自覚が足りないと思ってるんですけど(笑)。
中年として、何をしないといけないかっていうのは確かに思っていて。

 

__

男40。

 

石原

だからね、
元々僕らは仕事としても、黒子的なところが大きいけど、
より黒子的な感じと言うか。
もっと若い子が活躍できるような場面とか。
僕らも多分、許容してもらったであろう、
若い子だからこそ、
「いやそれ無駄じゃない」
とか、
「それ違うんじゃない」
とか、
そういうのもあるけど、
自分でやって失敗していかないと、
腑に落ちない事ってあるじゃないですか。
理論としてわかってるだけじゃなくて。
そういう若い子たちが、
もっと失敗したりとか、
そういうことができるような、
そういう環境をまちに作っていかないと、と思っていて。

 

__

そうですよね。

 

石原

たとえば、
奉還町や問屋町って
若い人でもチャレンジしやすい場所だと思うんですよ。
だけど、
資本力のあるところの力技で
そういう貴重な環境が失われることがあると
あらたなチャレンジが出来にくくなるんじゃないかと思って。
だから、そういう場所をどう残すかっていうことが
課題だなと思っていて。

 

 

__

まちの風土が、ガラッと変わっちゃう可能性もありますもんね。
まち全体のデザインができてないというか、
管理する人がバラバラだからしょうがない
みたいなところがあるのかもしれないですけど、
でも、それじゃあね、
っていうところがありますよね。

 

石原

そうそう。
結局まちも、生態系的なものだと思っていて。
3階みたいなめっちゃ安い所で、尖った店を出すとか。
そういうことが色々享受される状況が一番いい。
それが、ごちゃごちゃしてて汚いから、
全部ガチャンってやって、
テナントビルとか建てちゃうと、
そういうものが新たに生まれてこないですよね。

 

__

そうですよね。
チャレンジが出来なくなっちゃいますもんね。

 

石原

ですよね。
それで、停滞しちゃうっていうね。

 

__

そういうのって、気づかないのかなぁ…。

 

石原

いやーほんと、そういうのって、森と同じだと思うんですよね。
日が当たるところもあれば、日陰もあるから、
色んな草とかキノコみたいなのが生えてきたりとか。

 

__

そこでのみ生息する、珍しい苔もあればね。

 

石原

そうそう。
それが、通りづらいからって、
全部アスファルト舗装とかにしちゃうとダメだし。
アスファルトは、
ずっとアスファルト舗装し続けないといけないし、
そういうデベロッパーさんが、ずっとそういうのをやり続けるんだったらいいけど。
それも実際としては難しいだろうし。

 

__

そうですよね。
それって、さっきのNPOセンターのコンセプトじゃないですけど、
いつでも何か困った時に、
自力で解決できたり、復活できたり、
そういう力や余白をを残した上で、っていうのが望ましいですよね。
状況って絶対変わっていくじゃないですか、時代に応じて。
だから、いざって時に
自己解決能力や自浄作用が働くような環境は残しておく
っていうのが重要かもしれないですね。

 

石原

ですです。
だから、そこを保ちつつ、
もちろんでも、大きいものが出来る事も、新しいまちとして大事だし、
そこの共存できる力を持つまちにしていくっていうのが、
これからやらなきゃいけないことなんじゃないかなと。
そういう意味でいうと、
エリアマネージメントやパークマネジメントていうのが、
地元のそういう人たちでやっていくっていうことをしっかり広げて、
広めていかないといけないんじゃないかなと思っていて。
そこのバランスの難しいところで、
今後僕らがまた、10年20年後、老害になってしまう。
だから、僕らが20代の時に、
40代50代の先輩たちがされていたように、
僕らが、そういうことを上手くしていって、
我々は、我々の役割を、っていう。

 

__

バトンタッチ。

 

石原

ねぇ。
そういうこともしつつ、
でも、まちの生態系も守りながら、そういうことをするっていうのが、
すごい今、必要なんじゃないかと。

 

__

今、中心市街地が、物理的に過渡期じゃないですか。
いろんな建物が移転してとか、
いついつで、クローズになってとか、
跡地をどうするかとか、
そういう物理的な過渡期なところと、
今まで中心で頑張ってきてた年代が40代オーバーになってきて、
そこの世代交代っていう、そこの過渡期と、
今、岡山、そういうのが一気にわっと来てるタイミングですよね。

 

石原

いやぁ、そうですよね。
そういう、下の世代、
20代とか30代とかの人たちが頑張れるように。
そこはそこのカルチャーだし。
災害支援ネットワークとかは、
多様な世代が入ってくれてるんですけど、
そういう形になるようにしないと。
どうしても付き合いやすいから、
同じような人と付き合っちゃうじゃないですか。
それはそれでもちろん大事だけど、
我々のネットワークは、
下の世代の邪魔にならないようにしないとなっていう。

 

__

そうですよね。
もちろん、年上の人も下の人も、人それぞれなんですけど、
若い人は特に、アイディアとかひらめきとか、
新しいものや可能性を持っているじゃないですか。
そういう良さと、
私たちみたいな世代は、
経験っていう財産を持っているから、
そこがうまく良いバランスでね、一緒にできる感じなるといいんでしょうね。

 

石原

そうなんですよね。
だから、若い人が苦労をすることでも、
僕らだったらやってあげられることがたくさんあるじゃないですか。
人をつなぐことだったりとかね。
制度や仕組みを知っていたりとか、それを教えてあげられたりとか。
そういうことを上手く提供しながら、
若い子たちがチャレンジして、失敗して、
そこで世界が広がって、
我々ともゆるやかに、邪魔しないぐらいでつながってできる、みたいな。
それがやっぱり、40代、厄年を迎えて、
そんなふうに思っているんですけど(笑)。

 

 

__

仕組みは整えてきた。
揃えるものは揃えたよ、と。
あとは、それを若い人たちが使っていって、
さらに新しいものに変化させていったりとか、
より使いやすいものに、
より、時代に合ったものにしていくか、っていうことですよね。

 

石原

そうですよね。
そういうことかなと思います。

 

__

あくまでも石原さんは、黒子で。

 

石原

あ、そうですね。
元々、そういう立ち位置だと思うんで。

 

__

NPOが、そもそもそういうものかもしれないですよね。

 

石原

岡山NPOセンターとかは、特にね。
より黒子感を。

 

__

以前の岡山NPOセンターのキャッチコピーで、
「NPOが活躍する社会より、NPOがなくても幸せな社会を目指す」
みたいなのがありましたよね。

 

石原

僕はずっと、そう思っていて。
最終的に、そうなればいいと思っていて。
みんなそれぞれが、思うことをそれぞれがやっていって、
この人はNPOの人、
この人はNPOの人じゃないとか、
そんなこと言わなくてすむ世の中が一番だと思うし。
割とそういう風になってきて来てるんじゃないかなとも思うので。

 

__

私が岡山NPOセンターに関わらせてもらってたのが、4、5年前くらいまでですけど。

 

石原

ですねぇ。

 

__

その5年くらいの間でも、随分変わってきてますよね。

 

石原

ですです。

 

__

だいぶ色んなことが動きましたよね。

 

石原

と、思います。

 

__

あの当時、目新しかったものが、
今、当たり前になっていて、
そういうものもいっぱいあるし、
いろんな人がこうやって思いを持って動いている中で、
知っていくこともいっぱいあるだろうし、つながることもいっぱいあるだろうし。
行政の人たちも、ちょっとずつ変わってきてくれている気もするし。

 

石原

いやそうですよね。
それは変わったと思いますよ。

 

__

最初の頃なんか、ただの業者扱いをされることもありましたからね。
そうじゃなく、きちんと接してくださって、
色々教えて下さった方々も、もちろんいらっしゃって、
その方々にはものすごく感謝をしてるんですけど。
まぁ、しょうがないかなと思うところもあって。
私たちも、立場が違えば分からないことはいっぱいあるし、
そういう文化の中でやってこられていて、
きっとお互いに、最初の頃は、
異星人との対面みたいな感じだったんじゃないかなって(笑)。

 

石原

ですよねぇ。
だから、そこに比べれば、
一緒にやっていこうという感じになりましたもんね。

 

__

なりましたよね。
だから、これから岡山、明るいかもしれないですよね。

じゃあ最後に、石原さんの中で
岡山の中心市街地がこんな場所になったらいいなとか、
自分がこうなっていたいな、
みたいな思いを聞かせていただければ。

 

石原

僕がこどもの頃に過ごした場所なので、
まずは、オリエント美術館とか、県立美術館とか、
いろんな文化施設があって、公園があって、お城や後楽園があって。
自分の原風景としても、それがまずは地域に在り続けて欲しい。
岡山のこういう場所に、
色んな美術館や博物館があるっていうことが、すごく大事なことだと思うし、
こういうエリアで、いろんなことに挑戦できる人がたくさんいて、
伝統的なものと、若い人の新しいチャレンジとか、
芸術や文化みたいなのがちゃんと融合していくっていうのが実現できる。
そういう場所であってほしいなと思います。

 

__

本当に、多様性のあるエリア。

 

 

石原

表町商店街も、すごく多様性があるなと思っていて。
表面では、古くからやってる洋服屋さんとかもあるし、
一本入ると、ちょっと怪しいお店とか。

 

__

謎ですよね(笑)。

 

石原

そうそう(笑)。
かと思えば、
天満屋の前で、ビッグイシューみたいな雑誌を売ってたり。

 

__

たまに、馬が来たりもしてますよね(笑)。

 

石原

ああいう、なんでもあり感が素晴らしい。

 

__

こうじゃなきゃいけないっていうよりもね。
いろんなことを許容できるまち。

 

石原

そうやって、いろんなことがあるっていうのが
岡山らしい気もするんですよね。
僕は、県外から来た人をご飯に連れて行くことが多いんですけど、
表町の辺りって、フランチャイズがほとんどないじゃないですか。

 

__

そういえば、たしかに。

 

石原

フランチャイズの居酒屋とか、ほとんどなくて。

 

__

ほんとだ。

 

石原

ないんですよ。

 

__

成田屋が頑張ってるとか(笑)。

 

石原

そうそうそう。
そうなんですよ。
岡山チェーン。
そういう、地元の店があるけれど、全国チェーンはなくて。
いやこんなまち、珍しいよねって。
サンマルクも岡山だし、ドトールとスタバぐらいですよ。
だから、それ以外のお店で、これだけあって、
この辺って何屋でもあるじゃないですか。
中華でも和食でもイタリアンでもフレンチでも。
古くからの洋食屋さんもあるし。
そういうのがすごいいいことだと思って。
岡山の地元のお店を、地元の人が愛して、それぞれ好きな店があって。
そういうことって、すごい大事なことだなと思って。

 

__

このサイトを立ち上げて、色んな方のお話を聞いて、
より思うようになったのが 「ザッピング感」 というか。
岡山もそうだし、人もそうだし、多様性っていうこともそうだけど。
そのザッピング感が、ある意味、
変に形を決めすぎず、自由度もあって、
好きなものをみんながそこからチョイスするっていう。
それがひょっとしたら、このエリアの良さであり、特徴であり、
そういうのが文化になっていくのかなっていうのを最近思っていて。

 

石原

ですね。
なんかそういうことは、ちょっとかっこいいとか、
いいよね、っていうことがもっと一般化していけば、
すごい強いまちとして、残り続けると思うんですよね。

 

__

潜在能力というか、底力ありそうですよね、岡山。

 

石原

ですです。
ほんとはね、千日前のちょいダークなあのエリアも残ってて欲しかったですけど。
失ってしまったから。

 

__

ほんとですよね。
残念。

 

石原

残念。
ちょっと、あの、エッチな映画館とかあるようなエリアがあっても面白いんですけどね。
中学生の頃のドキドキ感、半端なかった(笑)。

 

__

ちょっと見てはいけないような、排他的な感じ(笑)。

 

石原

通る時の、あのドキドキ感(笑)。

 

__

見てはいけないような気配とか、
入ったらいけない場所とか、
近寄ったらダメとか、
なんかわからんけど、妙に興味を引かれるような場所とか、
こどもの頃って、
そういう場所に、いちいちドキドキワクワクしたりして。
そういうのって、まちにあった方が面白いですよね。

 

石原

ほんとですよ。
あの辺、変な店いっぱいありましたもんね。

 

__

あと、変な人もいっぱいいましたよね(笑)。
名物おじさんとか。

 

石原

そういうのも含めて享受して、
それが好きみたいな感じになると、
いやぁ、いいなと思うんですよね。
このまちの中で、
何か困ったことがあればどうにかします、っていう人になって。

 

__

まちのお助け番、みたいな。
何でも屋。

 

石原

そうそうそう。
何でも屋みたいな感じで。
知ってる人は知ってる、みたいな立場で、
ずっとやっていければいいなと思っているので。

 

__

まちの赤ひげ先生(笑)。

 

石原

あはははは(笑)

 

__

目指せ、まちの赤ひげ先生(笑)。

 

石原

なんかわからんけど、
困ったら一度、石原んとこ行って相談してみるか(笑)。

 

__

石原いうのがおるらしいけぇ、ちょっと行ってみられぇ、みたいな(笑)。

 

石原

そうそう。

 

__

とりあえず、聞いたらなんか教えてくれるじゃろう(笑)。

 

石原

なんかそういうね。
そういうのができたら、まちの役に立ってるかなと思って。

 

__

石原さん、じゃあちょっと、
変なちゃんちゃんことか着て、
髭伸ばして、やってくださいよ(笑)。

 

石原

あはははは(笑)
イメージチェンジですね。
スーツとか着ないことにしよう(笑)。

 

 

 

石原 達也(いしはら たつや)
特定非営利活動法人 岡山NPOセンター 代表理事

 

特定非営利活動法人 岡山NPOセンター

岡山市北区表町1丁目4-64
電話 086-224-0995
FAX 086-224-0997
E-mail npokayama@gmail.com
ウェブサイト ▷ 岡山NPOセンター

 

 

 

インタビュー・写真
石井 範子(ENNOVA OKAYAMA)